第二次世界大戦中の体験 - 強制収容所 日系カナダ人たちは、BC州内陸部やオンタリオ州北部に造られた、いくつか形態の異る収容所へ送られました。 道路建設計画 -1942年三月から六月まで、延べ2千人の男子がいつくかの道路建設現場へ送られました。1942年10月までには、内陸部の収容所に移動して家族と合流することが許されました。 強制収容所: 大多数の日系人およそ1万2千人は、BC州内陸の収容所へ送られました。収容所は遠く山間部に隔絶されて設置されていました。廃坑に捨てられた無人の町にあった元ホテルや建物を改築したり、急造の小屋が完成するまでは、テントで生活することを余儀なくされました。 自由移動 - BC州公安委員会の許可を得て、小規模グループの人たちが「自由移動者」となりました。移動の費用や住居、生活費まで自前で賄うかわりに、家族単位で一緒に移動することが許されました。 捕虜収容所:影響力を持つ日系社会のリーダー核の男性たちは、全く抵抗の姿勢も見せなかったにもかかわらず強制的にオンタリオ州のアングラーやピータワワ捕虜収容所に入れられました。700人もの男子が戦争が終わるまで収容されていました。 収容所の地図 最初の冬、スローカン収容所では多くの人がテント生活を強いられました。(写真提供:バンクーバー日系カナダ市民協会リドレス委員会) BC州タシメ収容所に建てられた収容者用住居。収容所のある家庭。小屋一軒に二家族が住んでいた。(写真提供:カナダ公文書館) BC州タシメ収容所に建てられた収容者用住居。収容所のある家庭。小屋一軒に二家族が住んでいた。(写真提供:カナダ公文書館) BC州の強制収容所では、長さ約8メートル奥行約4メートルの小屋がたくさん建てられた。(写真提供:カナダ公立公文書館) レモン・クリーク収容所の俯瞰写真(写真提供:バンクーバー日系カナダ市民協会リドレス委員会 テリー・ワタダは「ニュー・デンバー収容所」という題名の唄を作詞作曲した。 << 前ページへ
最初の冬、スローカン収容所では多くの人がテント生活を強いられました。(写真提供:バンクーバー日系カナダ市民協会リドレス委員会)